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2025年1月20日 (月)

F1のニュースって勉強になる感じ その1

私は、物心ついた時から自動車が好きであった。

1歳の誕生日に父親から、赤と青の小さなブリキの自動車をもらった時は、それを両手で一台ずつ持ち、八畳間の端から、向こう側の柱を目指して歩き出した。歩き出したが良いが、それは遠かった。大海原の真ん中にいて陸地を目指しているような感じだった。反対側の柱まで行くと、ほっとして座り込んだ。柱に触れなかったのが残念だった。親によれば、始めて歩いた時らしい。

まあ、それはともかく、F1レーサーやチームのニュースを読んでいると、厳しい世界だと感じさせる。それとともに、本来仕事というものは、ここまでやるべきだとも思う。

私は、昭和52年、高校を卒業後に就職した会社で、現場の工場での組み立てを2年経験した。半年、一年で仕事が早いことを認めてもらい、ベルトコンベアでのラインの単機能な作業から、修理やラインの補助をするようになり、高圧ガス管理やガスバーナーを使った溶接、ロウ付けなども行うよう。仕事が終わると会社の補助金も得て職業訓練校にも通った。

二年程で工場内で、それなりの地位を築いて来ていた。ところがである。「信沢くんは、もう職業訓練校にはいかなくて良いから」と言われ、経理部資金課に異動となった。商業高校出身ということでの採用だったが、機械の組み立て、修理などは嫌いではなかったから、少しがっかりした。ただ高卒二年目での経理への抜擢は、それまでなったようで、その点では嬉しさもあり、妙な自信もあった。

経理、簿記の知識があるものの、実際に行けば経理部も、経理課、資金課、工場経理、更には売掛、買掛担当と分業化されている。貸借対照表や損益計算書に関わるような仕事でない。分業で毎日、現場でインパクトドライバーでネジを締め付けているのと、あまり変わりはなかった。

しかし、昭和55年頃、事務所にパソコンが置かれた。ソードという会社がデモ用に置いて行ったものであった。日々のソロバンや電卓での単純な集計作業に飽きていた私は「これを使えば、経理業務は面白くなるのではないか」と感じ、周囲の人からの冷たい視線を無視して、日々パソコンとはなんぞやと使ってみた。ソードのパソコンには画期的な表計算ソフト「PIPS」なるものが入っていた。現在のExcelの元にもなったソフトで、これは画期的だった。これでコンピュータの雰囲気はつかめた。

「パソコンを買って欲しい」と社長室の友人T氏と熱く上司に話し、「信沢くんが言うのだったら、買ってみるか」と各経理部署に1台ずつ導入された。ただ、それに飛びついて使いだしたのは私とT氏のみだったが。購入したパソコンにはソフトは導入されておらず、標準でBASICが入っていた。T氏と私は、それぞれBASICでプログラムを組みながらコンピュータを学びだした。会社がPIPSを購入してくれた頃には、もういらなくなっていた。プログラムを組めば、表計算ソフトなどよりも、もっと単純に便利に、短時間に仕事が出来ることを知ったからだ。

最初は自分の仕事を楽にするためにプログラムを組み、それが終わると女の子たちの仕事をプログラムにしてあげた。その頃、ちょうと社内のコンピュータシステムの見直しが始まり、経理部のシステム担当としてプロジェクトにかかわることとなる。NECが先導して、経理のシステム化と共に、経理業務の合理化が進められた。このプロジェクトは徹底していた。というか、私が合理化に関して徹底的にアイデアを出して進めていた。コンピュータを活用して経理業務を合理化する作業は、完璧を目指し、設計期間は長引いたものの、大変良い、時代にあったシステムが開発された。

それとは別に私はパソコンでのより良いシステムの開発を続けていた。経理部に移ってから3年が経つ頃、社内の自動販売機の組み立てラインを新しくするのに、検査機器のソフトを自社開発するという「情報機器プロジェクト」なるものが発足する。そのころは「信沢くんはプグラムが作れる」と社内で有名になっていたらしく、私も経理部に所属しつつ、そのプロジェクトのメンバーに抜擢された。数百人規模の社内でも当時プログラミングをするものは少なく、メンバーは専属3名、兼任2名ほどだった。当初は全ての検査機器と構想していたが、たった5人では不可能で、一部を自社開発となった。まだ登場したばかりのパソコンであったから、私が作る画面デザインも、処理方法も、皆からすると新しいアイデアであり、新鮮であり、私は水を得た魚だった。

プロジェクトも終了が近付き、ドキュメント整理に入った頃、「信沢くん、東京へ行かないか」と人事部長と組合の委員長から話がきた。以前、私が「東京で営業をしてみたい」と話していたのを覚えていて、東京のコンピュータ部門で人が必要になったので丁度良いということだった。

経理の仕事を整理しつつ、プロジェクトのドキュメントを整理して、東京のEDP室というところへ異動となった。ここでは、NECのACOSという汎用コンピュータの仕事をしていた。世は遠く離れた支店間などを結ぶ「オンライン」が流行り始めた頃だった。「信沢くん、一週間このマニュアルを読んでいてくれないか」と渡されたのは、ACOSでのオンラインシステムのものだった。COBOLの勉強をしつつ、オンラインのマニュアルをほぼ読み終えると、NECのオンラインプログラミングの研修に通う。毎日、新しいものに接する、楽しい日々であった。

そして東京の販売本社と各地の支店を結ぶオンラインシステムの開発となった。

ちょうどこの頃、新潟鉄工のコンピュータ部門が分社化された時期ではあったが、ある程度の規模の会社では、自社で使用するコンピュータソアとウエアシステムは、社内で開発をする時代だった。自社のためのシステムであるから、コストも考えつつ、より良いものに、トラブルのないように、ライバルに勝てるようにと開発していたように思う。だから、プログラムのコードの一文字一文字を大切にしていたように思う。

そんなソフトウエアシステム開発は、毎戦毎戦、毎日毎日、努力を重ねているF1チームと重なるのだろう。

続く。

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