昭和が消えかかった三河町から
丁字路に突き当たり「どっちへ行くの」と聞かれるから、ファインダーを覗きながら「真っ直ぐ」と答える。
「ああ、丹下珠算塾のところだね」と、意味不明な会話でも通じてしまうのが夫婦である喜びだ。
「ここにトロッコの線路でもあるといいんだけれどね。」と私。
歴史のありそうな古い建物と、戦後のバラックのような建物が雑居する路地。少し前までは、何軒か人の気配があったが、どうも全て空き家になってしまったらしい。
通りに出る手前は、更地となり、「前橋市」の囲いも。区画整理されるのだろう。
そして、正面も空き地。その先に、広瀬川があり、上毛電鉄の線路との間に、古い木造だが立派な家が二件並ぶ。私の好きなところだ。
「折角来たのだから…」などと言いつつ、大竹酒造も撮って行く。
青空が覗く空だったが、南の方には、重苦しい雲が重なっていた。
この酒造も含めて、この一帯は、区画整理をされてしまうのだろうか。ちょっと心配になる三河町なのであった。
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コメント
小学校入学前断片的にですが、覚えていることがいくつかあります、良い思いでとはいえませんが。。。。朝倉町の古い貸家写真のバラックのような貸家に住んでいた覚えがあります。前にはどぶ川そこに何度かハマッタようです。右足にはそのときの傷跡が残っています。
貧乏でも、楽しかった思い出がたくさんあります。実家の辺りは昔「そうほうぶん?」って言われていたような???
投稿: Tack | 2012年3月26日 (月) 10時04分
いろいろと調べましたよ。"そうほうぶん"で。そしたら、「宗甫分」、読みは"そうほぶん"でしたね。
だけど、みんなそれを「そうほーぶん」と発音していたのだと思います。今の南町1丁目と2丁目だそうです。
前橋は、市街地を中心に8割がたが空襲で焼けましたので、その周辺に、焼け出された人たちの、配給の材木で作ったバラックのような建物が密集したのだと考えます。
「貧乏」というより、終戦後から昭和40年代にかけて、みんなそんな感じの家に住んでいたのだと思います。
投稿: あつし@小伝馬町 | 2012年3月26日 (月) 18時38分
あつしさん、そうほうぶんではなく、そうほぶん(宗甫分)ですかありがとうございます。母親がタクシーの運転手さんに言っていましたので、多分南町だと運転手さんもわからなかったのですね!
もうその当時の風景は、残ってないですね!南部大橋が出来て、区画整理が随分進んだのを覚えています。実家に帰ると、動いていましたからね。
前橋駅周辺もガラリとかわりましたしね!
ありがとうございます。
お仕事ファイトです!
私は平日休みですので、明日、明後日は癒されたいと思います!
投稿: Tack | 2012年3月26日 (月) 19時09分
「宗甫分」を検索したところ、こちらのブログにたどり着きました。私の実家がある南町二丁目の旧町名です。両親に訊ねれば良いのですが、「そうほーぶん」の漢字の記憶が危うかった、という訳です。
懐かしい「Down Beat」が閉店したことはショックでしたが、あれからもう30年以上も経っているのですね。ブログの写真の数々を拝見して、東京暮らしが長くなり、年に数回実家との往復のみで現在の街の様子も分からず、頭の中のイメージは昔のままなのだと実感しました。
今度帰郷した際は、子供のころの遊び場だった刑務所近くの河原の河川敷など、ゆっくりと散策してみようと思います。
また、ブログを拝見させて頂きます。懐かしい前橋の記憶を、どうもありがとうございました。
投稿: 前橋→小竹向原 | 2013年11月 7日 (木) 13時08分
いらっしゃいませ。
ダウン・ビートは昨年末に解体、自宅を兼ねた店舗を新築し新装オープンしております。
以前の暗いジャズ喫茶というよりも、仲良しの年配夫婦のやっている喫茶店風になっております。
ランチメニューが大きく変わってしまったのがショックですが、逆に普通のお客さんが入り易くなったようでもあります。
来週月曜日(11/11)に、群馬出身者というか、前橋出身者が中心となって、西浅草で飲み会をします。
興味があったら、ここに書き込んでくださいな。
デハ。
投稿: あつし@小伝馬町 | 2013年11月 8日 (金) 18時03分