戸鹿野橋の茂木自動車
それまでの橋よりも上流側になった事で、 そこに商店を建てたという事である。大家さんの話では、終戦直後、廃材(今流には)を使って川原から柱を立てて建てた家である。
橋を渡って1軒目は、「米穀」の文字が読み取れる。今なら米屋、昔風なら「穀屋」ということになる。辞めてしまって随分と建つのであろう、屋根がスウェイバックしているが、なんとかまだ持ちこたえている。
隣りは何屋だか、わからなかったが、利根軌道について訪ねてみる。おじさんとおばさんがいて、親切に話してくれたが、時折息子さんらしい人が挨拶をしながら出入りをしていた。
今も残る利根軌道の橋脚を見に行くと、おじさんが着いて来て、一緒に「この先、線路はどうなってたのか」悩んでくれた。
私が酒造に気が付いて、そちらの写真を撮り始めると、おやじさんは、道の反対に行く。店の反対側が、自動車の修理工場になっていた。息子さんは、そこと店を行き来していたようだ。
おばちゃんも、おじやじさんも、鉄道のことは「大島さんに聞くといい」と話す。軌道が廃止になっのは大正の末。おやじさんは昭和2年生まれだから、全く分からない。「あの人なら90才だから知っているはず」ということである。
大島さんのおじいさんのところへ戻り、話を聞いて、当時の軌道跡をしばらく歩いてから、慌てて修理屋に戻る。暗くならないうちに川の反対側、17号側から橋脚の写真を撮らねばならない。
車に乗って走り出したら、もよおして来たので、17号のコンビニまでと思ったら、閉店してしまっていた。そこで岩本駅まで行く。すると、昔の砕石を運んでいた頃を思い出し、道草を食ってしまった。
そこからまた、思い出した様に急いで戻り、修理工場に車を停めさせていただき、橋へ走る。まあ、こんな時は、走るのも苦にならないから不思議である。体内に何か麻薬的な物が流れるに違いない。
戻って店に寄ると、午後5時を回っていた。ここで、少し話しをしてから行けばちょうど良いと、おばちゃんと、おやじさんと話しこんでしまった。
1時間以上話していたので、色々と楽しいお話が聞けたのは収穫だが、店を出る頃には、忙しいほどになってしまった。
それから10時過ぎまでミーティング。そして帰ったのだから、遅くなったのは仕方がない。一服して、慌てて風呂に入ってF1を観た。
しかし、充実した日曜日だった。昨晩、体調を崩して、うなされるかのような思いをしたのも、日曜日の疲れからかも知れない。年を取って疲れやすくなったのかもしれないが、好きな事となると、そんな事は忘れてしまうのが人間なのだろう。
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